坂田英三 旧ブログ

2013年までのブログです

牛になった馬

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ええっとびっくりするスキャンダルの「冷凍食品のラザーニャなどに馬肉を使った」事件、意外に早く報道の津波がおさまったのだが、ネットでの記事でリンクを追って行くと、ただ「安い馬肉をかわりに使った」という以上のおそろしいものがありそう。
記事を読み出したきっかけはこの不正取引がニュースで一度聞いても言葉が苦手の私の頭にすっきり入ってこなかったから。

事件はイギリスの食品管理局が有名冷凍食品メーカーFindusのラザーニャに馬肉が使われていることが見つかったが、「それは仏西部のCOMIGEL社のルクセンブルグ工場製で、その肉はフランス南部SPANGHERO社に注文。同社はオランダの貿易商のキプロス下請け貿易商を通してルーマニアから購入した」ということで、現在のところSPANGHEROが「馬」を「牛」にした張本人とされている(同社は牛肉として受け取っているからわかるはずがないと主張)が、もっと大規模なグルのような臭いがしますよねー。

馬が牛になったのは馬肉のほうが安いからだが、背景には馬肉価格の暴落があり、その理由の一つが「2008年に交通事故をなくすためルーマニアの国道で馬車の通行が禁止され、農民が馬を手放した」(FAOによると同国の馬の頭数は2006年に83万4千匹2013年には50万匹未満)という話で、これも気になった。もう4、5年前からの話だからだ。一方馬が生活のパートナーであり続けたルーマニアでは馬肉を食べる習慣が少ないようで、内需は少なく馬肉の価格暴落もなく、結局08年以来どう言う経路で屠殺され大量輸出されたかもわからない。ともかくすべて「身元確認」を逃れていて、その中には何千トンもの病気の馬の肉も含まれるとのこと。となると先日私が思った「馬だからといって心配することはない」という考えが覆される。実際フランスの社会援助団体のいくつかはこれらの「馬牛食品」を捨てるのは勿体ないから配れと要求し(私もそう思った)、それに対し赤十字が「一般市民に不適とする製品を『貧民』向けとするのは人間の威厳にかかわる」として反対したりしているのだが、これらすべては「健康上の問題はない」というのが大前提とされているのだ。加えて先に「ルーマニアから馬肉を購入」と書いたが、実際には普通は「鉱石」という意味の「肉のミネレ」mineraiなる新しい用語が使われた。ミネレは我々が肉と考えるものばかりではなく、屠殺段階で出てくる肉周りのもろもろもものも混ぜ合わせた「肉原料材?」なるもので、牛のミネレは全うなる「牛のラザーニャ」に使われている。これはちゃんと法律で定義されて、食品安全上問題はないことにはなっているが、昔は捨てられていたモノが技術革新で食用にできるようになった「新食材」らしくて、まったく何を食べさせられているかわからない世界であることが判明し唖然とするばかり。

幸いにして私の家は冷凍庫はないので冷凍食品もほとんど買ったことがない。かつ値段が少々高くても、気温が零下でも朝市での買い物が好きだし、、、。
大昔F君のアパートに同居していたとき、「元気が出る」とか言って馬肉ハンバーグをたまによばれたことがあったが、これもごく稀のことだった。パリの街角にはまだ馬の頭像を飾った馬肉屋さんが時々見られるが、馬肉消費は現在肉全体の0.3%にすぎない。しかしこのスキャンダル事件で逆にフランス人は馬肉を思い出したのか、馬肉屋さんの売上げが15%ほども急に上がったとのこと。

微分係数の世界

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今日は良い天気、青空が広がった。今年の北フランスは曇天続き(先日友人に「雨の絵」が毎日出来るでしょうとからかわれたが、霧雨のような「絵にもならない雨」が大方)で、気象庁によると先月1月のパリの日照時間は僅か24時間だそうで、やっぱりお日様を浴びないと気が滅入ってくる(特に私はB1Fのアトリエの「地下生活者」なので)。だから外に出たのだが、再開発地区の私の界隈はにょきにょき妙な建物がいっぱい建って、最近は大学キャンプ横のこの殺風景な公園に行かないと広い空が仰げなくなってしまった。
単調なる曇り空の冬に反して今年のニュースはめまぐるしく変わって行く。俳優のドゥパルドューが税金逃れにフランス脱出話(最初はベルギー)にフィーバーし、結局彼はプーチンからロシア国籍をもらうという思いがけない成り行きになってと思ったら、同性結婚法案賛成反対に盛り上がりドゥパルドューは完全に消え去り、メキシコででっち上げ事件で7年間捕われていた女性が釈放されて数日報道は彼女一色となったらマリで戦争が始まり+アルジェリアの人質事件、、、法王の引退宣言があると報道はそればかり(歴史的に見れば珍しいことらしいが、敬虔なるクリスチャンが珍しくなった現在のフランスで、これがそんなに皆が是非を言い合うような大事件なのだろうか?)、そして冷凍食品の牛肉の代わりに馬肉を使うという食品スキャンダル(食品管理システムとしてはおそるべき大問題だが、馬肉だから病気になることはないから怖がることはないと思うのだが)、、、上記羅列したが何せ立て続けに起きたので前後間違えているかもしれない。こんなに事件が起こるのは珍しいことなのか?そしてこれほど今までもマスコミはただ新しい一面ニュースのみを報道していただろうか? 惨事や危機的状況が日常となった国の話はもう聞かれない。わけがわからなくなってくる。ともかく事件のバリュー、歴史性より「変化」だけが重大視されるようになったと思う。微分係数の世界なのだ(グラフの傾きと言った方が簡単でしょうか)。普通の人には聞くのも嫌な言葉でしょ。そう、数学的に見て(?)ギスギスした社会なんです。

「夢の浮き箸」秘話

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先週友人の家で夕食を呼ばれたとき、名古屋での割り箸作品の話(12年11月参考)をしたらやはり「日本は割り箸を作ってインドネシアの森林破壊をしている」というコメントがなされた。それに対し「環境擁護派」私だが、「どうせ捨てる端材とか間伐材を使ってる」と日本政府関係者のような答弁をした。というのも私はいくら日本人が割り箸を使っても森林破壊する量には到底いたらないと思うし、割り箸なんか作っても儲からないでしょと思うのだ。だから「端材を使っている」という説の方に理があると思っている(いた?)。
そもそも「割り箸森林破壊説」はフランスで広く行き渡っていて、ゴーグルでキーワードを入れて検索すると例えばリベラシオン紙の2004年の2月26日付の記事に当たり、東南アジアから今ではカナダの針葉樹林を破壊する勢いのように書かれていたが、よく読むと主語は割り箸でなく日本の木材輸入商社となっている。日本語グーグルの方がさすがに沢山様々なソースがあったが、一番掘り下げていると思われる東大教養学部のサークル「環境三四郎。によると、「端材利用」しているのは国産品のみで、原価があまりにも安い輸入材では純粋に産地で割り箸を製造している。つまり私の「食卓での弁解」の根拠は覆された。残った割り箸消費と森林破壊の量的な問題だが、現在の輸入割り箸のほとんどが中国産(98%)で、「近年中国では森林荒廃が進み森林保護的な政策(退耕還林政策)がとられるようになったことを前提として考えれば、資源保護を理由として割り箸にかかる税率が引き上げられたことをみると、中国における割り箸生産が中国の森林資源に悪い影響を及ぼしている可能性は高い」と間接的に結論を導きだしている。という訳でこんな簡単に検証できそうな問題でもすっきりとした答えはでなかった。私は頭が固いので「割り箸が東南アジア、中国の森林を破壊した」とはなかなか思えない。おそらく「森林伐採と農地化」という日本商社と途上国当局の目算が折り合った結果が森林破壊をもたらし、割り箸はシンボルに過ぎないのではないかと思う。しかし私には「ちょっと変では?」と思われたこのシンボルに世界中の人の多くが共感した理由は何なのだろうか?やっぱり私が誤っているのか?本当に環境問題は全く反対の意見の間で一個人としては判断できない状況に往々にして置かれるので困るのだ、、、
(私の文はわかりにくいとよく言われるので敢えて書き加えますが、私は「割り箸擁護」をしているわけでは全くなく、妙なシンボルではなく本当の問題をまな板にのせて反対したほうがいいと思う訳です)

王立ロープ工場の寅次郎

木曜日はロシュフォールへ行った。若きカトリーヌ・ドヌーヴ姉妹が歌い踊る、あの気持ち悪い映画「ロシュフォールの恋人たち」の街で、大西洋岸とばかり思っていたら、湾曲するシャラント河の河口付近だが内陸だった。思い違いの元はここはルイ14世がコルベールに命じて海軍工廠を作らせたからで、今でも木造帆船の伝統技術を保存する試みが行われている。帆船につきものだったロープを作る王立アトリエも再建されて博物館になっているが、ここでアーティスト・レジデンス・プログラムがあり、第一選考に通って面談に呼ばれた。一昨年のスペインの人形劇団と同様、場所は特有でレジデンス期間も2ヶ月と長く「私向け」なのだ。提案書類には本当に漠然としたことしか書かなかったのだが、博物館で今でも使えるロープ造りの機械とか、ロープを使った昔のブイとかを見て超漠然としたアイデアが、完全に実現可能な「住民参加」型の「歴史と今」とを結びつけるプロジェクトに一挙に発展。これは博物館および町の要望にぴったりだし、私の人間性あるいは無名性が問われない限りもう決まったようなものと思い、また来るのだからとろくに観光もせず早い列車に予定を変えてパリに戻って来たが、昨日電話でダメ通知。あんまりアイデアが良いと「私でなかったら(言葉巧みフランス人アーティストなら)通ったかも」とめげるんだよねー。「最後の二人の一人」と言われても何の気休めにもならない。選ばれたのは写真家とのことなので、結局は最終着地が確実な方をかったのだと思う。それに私のアイデアは良すぎて私がいなくてもできる、だから「博物館の企画として将来使ってもらっていいから」と捨て台詞のように言ってしまったが、これはまったく捨て台詞ではなくて本当の気持ち。だって私が企画を温存しても「王立ロープ工場」の機械とノウハウを使ってしかできない企画なのだから他に提案しようがない。
(また来るからと思い写真もありません。徹底した馬鹿ですよね~。昨日は早くからふて寝したので今朝は5時に起きて、このブログを書いて落胆をぬぐい去り、そして新しい日を、、、)良い夢見たけど結局話が決まらなかったから出費のみが残った。無情な社会ですアートも。

不思議な悪臭騒ぎ

ルーアンの化学工場で25日月曜、取り扱いミスから腐卵臭のガスが大量に発生、風の影響でこの悪臭がパリに達し騒ぎとなった。当局の発表によれば「めまいや嘔吐感をもよおしうるが、健康には問題がないので心配しなくてよい」(何処かで聞いたことのあるような台詞)。吸うと気持ちが悪くなるガスが健康に害がないというのは素人の私には不思議というか非論理的な感じがする。気管支炎を起こさないとか、死ぬことはないとか言われた方がはっきりして、まだ安心しやすいように思うのだがどうでしょう? かつ上のコメントには「微量な場合」との条件がつくのだが、微量とはどのぐらいなのか、全然数字が出て来ない。肝心のガスの正体も、ガス漏れ対策に都市ガスにわざと悪臭をつけるチオルと類似の物質とのことのみ。まあ危険性はないとは推測できるが、難しい化学式でも良いから、「コレコレなる物質が漏れ、その安全基準値(多分あるだろう)はいくつで、工場近くでその測定値いくつ、パリではいくつ」というごく簡単でクリアーな発表がないのは不思議でたまらない。(測定不能なんてことあり???) かつパリで臭いから騒ぎになったが、ルーアンの人は?
環境に関する象徴的事件にも思われたが、それ以来風向きが変わり(イギリスに行ったらしい)、メキシコに留置されていた仏女性が解放されたりで、この問題はあっという間に霧のように消えた。
マスコミを2日間はにぎわせたこの悪臭だが、実は私はクンクンしても全く感じなくて、、、鼻が悪いのかなー? お陰で排気ガスをムワっと吸い込んだ。

闘牛士には近づくな

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私が一年少し前から始めた「毎日のデッサン」、もうとうに書きたいと思うテーマなどなくなり、毎日紙に向かう時は頭の中は空っぽ、何となく筆を動かしてふとできたイメージから絵を作っていたのだが、10日前から「闘牛士」というクラシックなテーマにはまってしまった。第一作目は偶然だったのだが、2日目、3日目また描きたくなって、一日一枚で終えるはずが金曜日には2作、昨日今日になると何枚も、かつ不透明なグアッシュ絵の具で筆を加えて何度も描き直して、全て気に入らないという「画家の不毛なる日常」に戻ってしまった。一日一枚で「まあこれでいいか」とj気軽にフェースブックに載せて一段落させ、「翌日は翌日」とするのがよかったのだったが、、、。しかし今更何故「マタドール」なのだろう? 闘牛は一生に一度、かつ何十年も前に観たっきりなのに。それに対して絵では、ゴヤ、マネ、ピカソなど、巨匠の作品を沢山見てますねー。かつみんな沢山描いている。陳腐な言い方のなるが「生と死の緊張の一瞬」を捕らえたいと思うと抜け出せなくなる。私なんかに到底手に負える相手ではない。そそくさと退散した方が身の為(昨日今日のデッサンは全てゴミ箱、もう止めと今晩は心に決めている)。しかし津和野の私立美術館で見たゴヤの版画はすごかったなー。そうなのだ11月末に妙なところで数十枚の闘牛シリーズに出くわせてしまっていたのだった。

津和野でその「杜塾美術館」に入ったのは、安野光雅は私のチョイスのには絶対入らなでしょ、北斎もよく見るしでパス、一軒ぐらいは古い屋敷に入ってみたかったところに、入り口から見た建物が立派だった。そして説明に中尾彰・吉浦摩耶という洋画家夫妻がパリに住んだ時の絵があるとあり、意外に私は最近になって自分では描きもしないパリ風景を人がどう描くのか興味を持ち出していて、、、加えて「2階の雨戸のふし穴から差し込む光で、庭園が幻想的に写る」というのにも好奇心がそそられ、当然あったゴヤの銅版画の説明は気にも留めなかったのだが、、、。ご夫婦の絵もふし穴も私には沢山学ぶところあり、建物も含め良い美術館でしたよ。
(写真は3番目のマタドール、この辺までは執着なく描けていたのに)